日系社会ボランティア

自分探しはルーツから!私のファミリーヒストリー

こんにちは!ミカ(@mica513)です。

2つ前の記事で語学年表について書きましたが、今回も自己紹介の記事です。

日系社会やボランティア活動について発信していく上で、私のことを知ってもらった方がより伝わるかなと思い、書くことにしました。

祖父、母、私の3人を軸に紹介します。

 

と、その前に…

ブラジル日系移民のプチ年表

1908年:神戸港を出た最初の移民船「笠戸丸」がサントスに到着
1942年:日伯国交断絶
1953年:日本人移民受け入れ再開
1973年:移民船での移民廃止
2008年:移民百周年
2017年 :ブラジルには現在 約160万人の日系人がいると言われている

もちろんこんな数行でまとまるものではありませんが、参考までにざっくりと。

 

 

おじいちゃんの話

1959年 熊本出身の祖父は戦後の満州から帰国。海外で大きな仕事がしたいと家族で渡伯を決意。「あめりか丸」という移民船で2ヶ月かけてブラジルへやってきました。

養鶏所や他の日本人の畑を手伝いながらサンパウロ州内を転々としていた4年後、熊本県人会と6つの家族でPilar do Sulという村に土地を購入。

熊本出身の日本人で長屋に共同生活をしながら、2年後にそれぞれ独立。祖父はブドウと桃の缶詰を主に作っていました。

 

 

お母さんの話


土でできた家。一番左が母です

熊本で生まれて1歳で移民として渡伯、その後ブラジルで30年を過ごします。

子供の頃から家の中では日本語、学校や兄弟の間ではポルトガル語でした。

日本語学校に通うも、金銭的な問題と学校の勉強に支障が出るからと途中で辞めてしまったそうです。

彼女が大人になるまで、村はずれの家に電気はなく、アルマジロはハリネズミを食べ、山羊のミルクを飲み、ドラム缶を五右衛門風呂にしていたと聞きました。

 

リベルダージの宝石店(今はもうなくなってました)で働いてたけど強盗の人質を味わってから辞めたこと、何回かあったひったくり被害、通っていた教会や裁縫学校について、ブラジル人と付き合ってたら親に反対された話…。

私が今まで日本で生きてきた年数が、母にとってのブラジル人生でした。

 

一方 そのころ父親は…?

「なんか海外で働きた〜い」と1980年にJICAの工業移民としてサンパウロ州のSão Jose dos Camposへ。

「家 買ったので結婚してください」 → 新たなご家族誕生!

 

 

そんな2人の間に生まれた私の話

1989年 ブラジルの美味しい果物にちなんで「美果」と名付けられた日系2世が生まれます。

1990年 出入国管理法が改正。日系移民のデカセギは始まると同時に家族で日本へ。その後20年、ブラジルへ戻ることはありませんでした。

 

「お母さんはなんで私より漢字がかけないんだろう」
「なんで私は親戚で集まった時の会話がわからないことがあるんだろう」

という疑問はブラジルへの興味に変わり、生まれた国について何も知らない自分への違和感を覚え始めます。

 

「ブラジルでの記憶が欲しい!」

欲求と知的好奇心が働いた結果、日系社会ボランティアとしてブラジルに戻ってきました。

 

 

結論:自分のルーツを知るのは大事!

おじいちゃんは結局 借金を作ってしまい、返済のためにデカセギをした叔父さんに呼び寄せられる形で20年前 帰国しました。

偉大な功績を残せなかったとしても、評価されなかったとしても、祖父は長い日系移民の歴史の1ピースです。

海外に行ったからエライとかじゃなくて、必死に生きようとしたことが尊いことのはず。

 

自分の過去を知ることは自分の未来に繋がります。

小さな1ピースが私の今を作っています。

 

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